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(1からの続き)
eiger3.jpg←アイガーの「南壁」。険しさは北壁と似ていますが、
  日があたっている分、いいのかな?写真:SummitPost.org

■初登頂のあと
アイガー北壁の第2登は、第2次大戦が終わってしばらくした1947年、フランスのレシャネルとテレイによるものでした。その後成功が続きますが、1953年8月、ユリ・ワイスとカールハインツ・ゴンダの2名は、アイガー北壁登頂成功後、なんと山頂から転落死しました。証人がいない彼らの登頂成功は、12年たってから認証されました。北壁の悲劇は、まだまだ終わらないのです。

■イタリア・ドイツ隊の悲劇
1957年夏、イタリアのクラウディオ・コルティ、ステファノ・ロンギ組と、ドイツのギュンター・ノートドルフトとフリッツ・マイヤー組が、協力しつつ登攀を行いました。悪天候の中、滑落や落石にあってイタリア隊が遭難状態となり、ドイツ隊は救助を求めて移動しルートを見失ってしまいました。
この様子はクライネ・シャイデック村からマスコミが中継しており、イタリアとドイツの要請に応じ、アイガー北壁史上初の国際救助隊が編成されました。その数50名言われ、救助隊は、楽に上れる別のルートから登り、山頂で小屋を作って待ち構えて4人を引き上げる作戦に出ました。

しかし、実際の救助は困難を極め、イタリア隊のコルティは救助されましたが、滑落したロンギは吹雪の北壁にとりついた姿のまま3日以上辛抱し、救出予定の日に凍死してしまいました。ドイツ隊の2名に至っては、とうとう発見できないまま救助活動が終了しました。
今までの悲劇はおおむね全滅だったのですが、今回は生存者がいました。喜ばしいことのはずなのに、コルティは世間からパートナーのロンギと、助けを呼びにいったと考えられたドイツ隊2名の死の責任を負わされ、非難され続けました。ドイツ隊の遺体は、その4年後に、西ルートを下山中と思われる場所で発見され、コルティはようやく白い目で見られることがなくなったそうです。

■1800m垂直の壁....救助の難しさ
1936年時のトニー・クルツの遺体は、鉄道の駅から数十メートルという近さにもかかわらず、数年間放置されました。今回の1957年のロンギ隊員の遺体も、2年間収容できなかったのです。
人の力では、遺体も収容できない...まして、かろうじて生きている重傷の遭難者を運ぶことは、大人数でも難しいことでした。この一件は、たとえ精鋭部隊でも、雪山で動けない人間を救助するということがいかに困難か、改めて示した事件でした。以降、アイガーの救助は主にヘリで行われるようになり、1971年に初めて救助に成功しています。

■北壁の冬季の登攀成功
しかし、数々の悲劇をへてアイガー北壁のルートは相当に研究されました。1961年にトニ・キンショーファーら4名が初めて冬季の北壁登攀に成功し、全員無事に帰還しました。これを機にアイガー北壁はちょっとしたブームになり、次々と記録が作られるようになりました。
1961年、アドルフ・マイヤーが単独登攀に挑み失敗。2年後の1963年にダルベレーが単独で北壁初登攀をなしとげました。一方で、同じ年の8月にナヴァーラとラバダのスペイン隊2名が「白い蜘蛛」を越えられず、疲労凍死しました。
1964年には、デイジー・フォーグが女性による北壁初登攀を成功させています。

■日本人初登頂...アイガーのドラマ
この頃、日本人も3大北壁へ次々と挑戦していました。1963年芳野光彦らの撤退のあと、1965年8月に高田光政、渡部恒明の2名がアイガー北壁に挑みましたが、残り300mのところで2人とも短距離を墜落、渡部さんが足を骨折し動けなくなってしまいました。高田さんは渡部さんを岩棚にひっぱりあげてザイルで固定し、救助を要請するため夜を徹して下山しました。もちろん北壁を下ったのではなく、山頂を通り越して北西の稜線を下ったのです。自分も負傷していた高田さんの決死の深夜の下山が、日本人のアイガー北壁初登頂ですが、本人はそれどころではなかったでしょう。
高田さんは、すごいことに午前4時ごろにふもとのクライネ・シャイデックに到着、救助隊を要請しますが悪天候ですぐには発てません。そして2時間のち、アイガー北壁直下の谷に落下している渡部さんが、望遠鏡で発見されました。ザイルをはずしての落下で、痛みに耐えかねての自殺と考えられています。
高田さんの超人的行動には驚きますが、渡部さんもまた、アイガーにとりつくわずか数日前の8月6日に、負傷した芳野さんを助けながら、マッターホルン北壁を日本人初登攀した強者中の強者でした。

■日本人とアイガー
1969年8月には、数年前から築かれていたアイガー北壁ダイレクトルートの中で、最も距離が短い「ジャパン・ダイレクト」が加藤滝男、今井通子、加藤保ら6名によって開拓されました。現在でも多くのクライマーが腕試しの目標としているルートです。
1970年1月27日、森田勝ら4名により、日本人の冬季初登攀が成されました。森田さんは夢枕獏「神々の山稜」の主人公のモデルとして有名ですが、口が悪すぎる人です。1978年3月には、長谷川恒男が世界初の冬季の単独登攀に成功しました。長谷川さんは、その前年にマッターホルン北壁、翌年にグランドジョラス北壁の冬季単独に成功し、世界初の3大北壁の冬季単独登攀をなしとげました。
しかしアイガー関係で、世界的に最も名前が知られている日本人登山家は、ミッテルレギルート初登頂のYuko Makiさん、ダントツです。何しろ1921年ですからね。

■北壁タイムアタック
東京タワー5つ分の長さの壁、アイガー北壁。しかし、天候の調子がよい場合、現在の技術と装備をもってすれば、フリークライミングの難度の高い対象となりえるものです。しかし、数々のベテランクライマーの命を飲み込んだ北壁を1日で登りきったチームが1950年に存在して、それが北壁第4登というのには驚かされます。国籍?のホルシュテンレヒナー&ワシャックの2名で、夏季に18時間で登り切りました。「星と嵐」を書いた山岳ガイドのガストン・レビュファは第8登、1952年、登山家ヘルマン・ブールのサポートとしてです。6つの北壁の登山が詩的に描かれる「星と嵐」は、ラストがたしかアイガー。

1974年、あのラインホルト・メスナーがパートナーのハーベラーとともに、10時間で北壁を登り切るとんでもない記録を達成しました。8000m級を全部登ってる特殊な人メスナーくらいかと思ったら、タイムアタックは毎年のように更新され、2008年現在の記録は、団体戦が6時間50分(ヘックマイヤールート)、単独登攀ではなんと2時間47分!ルート書いてなかったんですが....フリークライミングのジム行って帰ってくるより速いですな....

■ガイド登山「日帰りアイガー登頂」
というのがあります。もちろん北壁ではなく、ミッテルレギルートを使うようです。腕に自信のある人限定のようですが、夏の高山装備で大丈夫のようです。「特に危険な場所はない」とか書かれていますが、写真をみたら剣の上を歩いているみたいな稜線で、私には全部危険にしかみえません。マッターホルンのヘルンリ稜にも、同様の日帰り登頂のガイド登山コースがあります。
blogの感想などを読むと、登山歴が見事な方でもガイドにそうとうせかされるようですので、心肺機能に自信のある方向けでしょうか。

■アイガー東壁、崩落
 2006年7月のびっくりニュース。暖冬により氷河がとけ、岩がもろくなり、アイガーの東壁の巨大な岩塊--だいたい高層ビル1個分の岩が氷河の谷に落下しました。グリンデルワルトでは埃が降ったとか。長期間アイガーの東壁は登攀禁止になっていたと思いますが、今はどうなのでしょう。

(3へ続く)
 

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