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■2008年のアイガーeiger1.jpg
 人は、自分にないものに憧れるといいますが、どちらかというと、「できないもの」の方により憧れるような気がします。私は子供時代から喘息で、坂道が登れません。が、登れないくせに、仕事の都合上、山の上にはよく滞在していました。身近で遠いもの、それが登山。
 2008年は、スイスアルプスのアイガーの初登攀150周年、アイガー北壁登攀70周年に当たります。アイガーは日本にゆかりの深い山です。

□右上は5月のアイガー北壁(Nordwand)。撮影:Ludewijk Photo:SummitPost.org
■東京タワー5個分続く垂直の壁...そこにあるなら、のぼりますか?
 アイガー(Eeger)は、ヨーロッパアルプスのスイスにある山の1つで、標高は3970mです。アルプスはスイスのほか、ドイツ、オーストリア、フランス、イタリアにまたがる広い山岳地帯で、アイガーはベルニーズアルプスとよばれる一角にあります。標高3970mはヒマラヤなどから比べると低く感じますが、太陽があたらない垂直に近いウォールが1800m続く、なのにそのすぐ麓が観光地、と日本の山からは想像できない特徴をもつ3000m山です。
 有名なアイガー北壁は、ヨーロッパ3大北壁の1つ。残り2つは、美しい魔の山マッターホルン北壁、レビュファの詩的描写で知られるグランドジョラス北壁です。ひと口に高さ1800mの壁というと、ふうん、ですが、東京タワーを5個重ねた分続くというと、どんなに恐ろしいものかわかるでしょう。ピトンが抜けたら、日本の山なら数十m落下か数百m滑落、でもアイガーは千と数百m落下(アイガーに滑落はない。あっても数mか)。

 しかし、本当に怖いのはその壁よりも、夏でも簡単に凍死するアイガー北壁の気象条件らしいです。
 ヨーロッパ平原の北東からの風をまともに受けるアイガーの北壁は、アルプスでも特に吹きっさらしで、夏でも吹雪く気象難で知られています。太陽もほとんど当たりません。傾斜が急すぎて雪はあまり積もらないそうで、アイガーは冬に見ていてもひときわ「黒い山」なのです。....こんなもんを登る人の気が知れません。
 
■19世紀、登攀の開始
 アイガー北壁の登攀史は、エピソードの多いアルプスでも特にドラマチックです。
 アイガーの山頂自体は、1858年8月11日に、24歳のアイルランド人チャールズ・バリントンと2人の現地ガイド・クリスチャン・アルマー、ペーター・ボーレンにより、西稜ルートから初登頂されています。バリントンらの20年ほどあとに東稜、南東稜が、1921年には日本の槇有恒(有名なミッテルレギ小屋を建てた人。日本のマナスル登山隊の隊長)によって北東稜が征服されました。しかし、北壁だけは、未征服のまま残されていました。
 当時のアルプス登山隊の写真や装備をみると、今の冬の旅行着や、ハイキング姿よりも貧弱に見えます。当時はそれで最強の装備だったのでしょうけど、よく生還者がいたものです。

■豪華ホテルから死の登攀を見物?
 1930年代、アルプスはほとんどの峰が登頂されていましたが、アイガー北壁だけは難攻不落で残っており、国家の威信を示すため、ドイツやオーストリア、イタリアなどが初制覇に挑んでいました。
 実は、アイガー登攀は、宣伝にはもってこいの登山です。アイガーは、スイスの高級リゾート地・グリンデルワルトやクライネ・シャイデックのすぐ目の前にあり、それらの村からは、さえぎるものなく上から下まで一望できるのです。つまり、豪華ホテルに泊まりながら、双眼鏡や望遠鏡で、瀕死の様子で北壁を登る挑戦者たちを観察することができたのです。

eiger2.jpg
←□左からアイガー、メンヒ、ユングフラウのベルニーズ・
  アルプス3山。
  昔はベルニナ・アルプスとも言いましたよね。
  撮影:Cyrill        (C)SummitPost
  アイガーは北壁ではなく、北西側が見えています。


■最初の悲劇
 記録を見ることができる最初の北壁挑戦は、1934年、ヴィリー・ベックとリューヴィンガー兄弟のものです。標高2900mまで達しましたが、失敗したと伝えられています。ただスタート地点のクライネ・シャイデックが2000mあるので、実際のぼった量は900mほどということです。(でも東京タワー2.5個分)。このパーティの詳細は不明ですが、「アイガー北壁死亡者リスト」にはのってないので、生還したのでしょう。

 1935年、ドイツのメーリンガーとゼドルマイヤーが、一週間もかけて3300mまでのぼりますが、猛吹雪のため「フラット・アイアン」(第2雪田と第3雪田の間と訳されている)と呼ばれる場所で立ったまま凍死。アイガー北壁に1週間もいた時点ですでにすごいのですが、この遭難は「死のビヴァーク」と呼ばれ有名です。

 1936年7月には、ドイツのヒンターシュトイサーとクルツ組、オーストリアのライナーとアンゲラー組が、同じ時期に登攀を行い、途中で合流していっしょに登りました。落石によるオーストリア隊のケガのため、4人とも下山を決めますが、途中でルートを見失い、ピトンが抜けてクルツをのぞく3名は数百mの谷底へ落下してしまいます。トニー・クルツは1人で最後の数十mまで降りますが、ザイルがたりなくなり宙づりのまま疲労凍死してしまいます。そこは、真下の鉄道の駅から人々の声が届く位置だったそうです。この遭難は映画にもなり、トニー・クルツの悲劇として有名です。

アイガー北壁、初登攀
 1938年6月、イタリアのサンドリとメンティ組が北壁に挑戦しましたが、”難しい割れ目"近くで墜落しました。スパゲッティやオペラのイメージが強いイタリアもまた、アルプスを国土の一部にもつ山岳国家なのです。
 同じ年、1938年7月、有名なハインリヒ・ハラーらドイツ隊による、アイガー北壁の初登攀がなされます。ハラーが有名なのは、アイガー登山史の名著「白い蜘蛛」を著したこと...ではなくて、映画「セブンイヤーズ・イン・チベット」でブラピが演じた主人公だからです。
 ハラーのほか、アンドレル・ヘックマイヤー、ルードヴィヒ・フェルク、フリッツ・カスパレクの4名は3日でかかって登頂の上、全員無事に北壁から帰還しました。当時のドイツの総統ヒトラーは大喜びで、次にハラーはヒマラヤ遠征隊に選ばれます。そしてヒマラヤから英国軍捕虜収容所をへて、ヨレヨレでチベットへ...。ハラーの著書名のホワイト・スパイダーとは、アイガー北壁上部に浮かぶ雪と岩でできた模様のことで、難所で知られます。
 
(アイガー北壁ー2へ続く)
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