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(2からの続き)
最後に、若干のアイガー物についてあげてみました。
■映画「アイガー・サンクション」1975年
アメリカ映画。クリント・イーストウッドが監督・主演した山を舞台としたスパイものである。
ジョナサン・ヘムロックは元エージェントだが引退し、登山家でもあったため、スイスで教師をしている。ところがかつてのボスにたのまれ、アイガーの国際登山隊の中にいるという凶悪犯を追うことになる。
アイガーの名前を有名にした映画だが、白眉はヨセミテの訓練シーンらしい。山岳映画では古い方だが、CGなし、ほぼすべて本物の山でのロケ、露出は人ではなく山に合わせており映像は今見ても美しい。イーストウッドはスタントなしで演じ(スタントよりイーストウッドのが山登りがうまかった?)、スパイ物好きには評判いまいちだが、山屋の評価はかなり高い。撮影2日目にいきなり落石でスタント事故死ってほんとかなあ...
■映画「ノース・フェイス--アイガー北壁」2008年
ドイツ映画。監督:フィリップ・シュテッツェル、主演:ベノ・フュルマン。原語ではもちろん「ノルトヴァンド」である。数ある北壁ドラマの中で1936年のトニー・クルツの悲劇をとりあげたもの。ネットをまわってみたところ、脚本がよく、役者がうまく、北壁のロケが大変美しいとのこと、見た人の評価は非常に高い。よかったあ、この名前で駄作じゃ悲しいもんね。ええ、少し前に「バーティカル・リミット」という、ストーリー的に酷評をうけた山岳映画があったもので...
■石原慎太郎「北壁」1956年
日本人がザイル1ピッチも北壁にかけていなかったころの、実話をもとにしたとされる短編。さすが都知事、すごいっす。内容的に1936年のクルツらと1938年のハラーらの登攀をたしで2で割ったような話にみえる。山屋に人気で、隠れた名作の呼び名が高い。
■新田次郎「アイガー北壁」1975年
ドュメンタリーに近い短編。1965年の高田、渡部組の話を実名で描いている。事故当時、あれだけ超人的にがんばった高田さんが非難されたそうで、新田次郎は小説によって擁護している。アイガーの天気はアルプスの中でも特に急変することで知られている。事故はアイガーの登頂競争のような状態のせいではないと思いたい。新田次郎は短編の方がいいと思う。
■ボブ・ラングレー「北壁の死闘」1987年
たぶんアイガー関連小説中、最も面白いと言われているもの。「神々の山嶺」はアイガーは一瞬しか出ませんからなあ。山屋にも、一般人にも好評。アマゾンのレビューでもこのテの話では異例の平均4.5点(5点満点)がついている。話もよいがクライミングシーンが見事とのこと。内容はオリジナルの山が舞台のサスペンス。白泉社からまんがにもなっています。
■ガストン・レビュファ「星と嵐」1955年
これは小説ではなくて、詩的な美しい文体で書かれた、6つの北壁の登攀記録です。中学校の図書室にはたいていあったと思います。1950年代の死と隣合わせのつらい登山の話のはずなのに、ロマンチックですらあります。山岳ガイドのレビュファは同名のドキュメンタリー映画も撮影しており、美しい映像だそうで映画の賞をとっています。
■ダニエル・アンカー「アイガー垂直のアレナ」改訂版が2008年
アイガー登山史の評論本と思われるが、現物を見たことがありません。検索でもでてこないので日本で出版されているのかどうかも不明。
■市川ジュン「鐘は鳴る」1975年
ド少女まんがですが、アイガーもの。当時は少年まんがにすら、アイガー北壁なんて具体的なものは出てこなかった時代。内容は、グリンデルワルトが舞台の、療養中の日本の少女と現地の登山家青年のひと夏の物語。日本の少女は、青年の幼なじみの女性と彼をめぐってちょっとした争いをしますが、後に少女はそんなことは意味がなかったと気がつきます。青年は、少女が危険だからやめてくれとたのんでも、山(アイガー)へと向います...青年が愛していたのは、自分でも幼なじみでもなく。最後に青年は、彼が愛した魔の山アイガーで遭難し行方不明に。
■番外:PS用ゲーム「蒼天の白き神の座:The GreatPeak」会社不明
架空のカムコルス山系の8000m峰に登山隊長として挑む、最初で最後の?登山シミュレーションゲームです。PS2ではなく初代プレステ用。出たのは1998年と古い古い...古いのに、オープニングと各山の紹介ムービーがめちゃくちゃかっこいいです。ナレーションもかっこいい。神奈川ヒマラヤ協会の故広島三郎さんという、知る人ぞ知る名登山家が監修しているので、シャれ入ってるし異様にリアル。高度順応しないと隊員の具合悪くなるし、強風だとルート工作作業が遅れるし、クーロワールにキャンプをはれば確実に雪崩にあうし、14時以降に行動させると凍傷でうっかりすると死ぬし、荷揚げ間違えて食料がない?ああっ副隊長のくせに高山病になってる場合かあっ...とまあその、しょうもない?隊員をやりくりしながらだんだん高い山にアタックして、最後に9000mのK0登頂でエンディング...らしいですが、3つ目で何度やっても時間切れ撤退です。
アイガーものゲームなんてないので、今でも高額で中古が売られているこの名作を紹介しておきます。
(一応終わり)
(1からの続き)
←アイガーの「南壁」。険しさは北壁と似ていますが、
日があたっている分、いいのかな?写真:SummitPost.org
■初登頂のあと
アイガー北壁の第2登は、第2次大戦が終わってしばらくした1947年、フランスのレシャネルとテレイによるものでした。その後成功が続きますが、1953年8月、ユリ・ワイスとカールハインツ・ゴンダの2名は、アイガー北壁登頂成功後、なんと山頂から転落死しました。証人がいない彼らの登頂成功は、12年たってから認証されました。北壁の悲劇は、まだまだ終わらないのです。
■イタリア・ドイツ隊の悲劇
1957年夏、イタリアのクラウディオ・コルティ、ステファノ・ロンギ組と、ドイツのギュンター・ノートドルフトとフリッツ・マイヤー組が、協力しつつ登攀を行いました。悪天候の中、滑落や落石にあってイタリア隊が遭難状態となり、ドイツ隊は救助を求めて移動しルートを見失ってしまいました。
この様子はクライネ・シャイデック村からマスコミが中継しており、イタリアとドイツの要請に応じ、アイガー北壁史上初の国際救助隊が編成されました。その数50名言われ、救助隊は、楽に上れる別のルートから登り、山頂で小屋を作って待ち構えて4人を引き上げる作戦に出ました。
しかし、実際の救助は困難を極め、イタリア隊のコルティは救助されましたが、滑落したロンギは吹雪の北壁にとりついた姿のまま3日以上辛抱し、救出予定の日に凍死してしまいました。ドイツ隊の2名に至っては、とうとう発見できないまま救助活動が終了しました。
今までの悲劇はおおむね全滅だったのですが、今回は生存者がいました。喜ばしいことのはずなのに、コルティは世間からパートナーのロンギと、助けを呼びにいったと考えられたドイツ隊2名の死の責任を負わされ、非難され続けました。ドイツ隊の遺体は、その4年後に、西ルートを下山中と思われる場所で発見され、コルティはようやく白い目で見られることがなくなったそうです。
■1800m垂直の壁....救助の難しさ
1936年時のトニー・クルツの遺体は、鉄道の駅から数十メートルという近さにもかかわらず、数年間放置されました。今回の1957年のロンギ隊員の遺体も、2年間収容できなかったのです。
人の力では、遺体も収容できない...まして、かろうじて生きている重傷の遭難者を運ぶことは、大人数でも難しいことでした。この一件は、たとえ精鋭部隊でも、雪山で動けない人間を救助するということがいかに困難か、改めて示した事件でした。以降、アイガーの救助は主にヘリで行われるようになり、1971年に初めて救助に成功しています。
■北壁の冬季の登攀成功
しかし、数々の悲劇をへてアイガー北壁のルートは相当に研究されました。1961年にトニ・キンショーファーら4名が初めて冬季の北壁登攀に成功し、全員無事に帰還しました。これを機にアイガー北壁はちょっとしたブームになり、次々と記録が作られるようになりました。
1961年、アドルフ・マイヤーが単独登攀に挑み失敗。2年後の1963年にダルベレーが単独で北壁初登攀をなしとげました。一方で、同じ年の8月にナヴァーラとラバダのスペイン隊2名が「白い蜘蛛」を越えられず、疲労凍死しました。
1964年には、デイジー・フォーグが女性による北壁初登攀を成功させています。
■日本人初登頂...アイガーのドラマ
この頃、日本人も3大北壁へ次々と挑戦していました。1963年芳野光彦らの撤退のあと、1965年8月に高田光政、渡部恒明の2名がアイガー北壁に挑みましたが、残り300mのところで2人とも短距離を墜落、渡部さんが足を骨折し動けなくなってしまいました。高田さんは渡部さんを岩棚にひっぱりあげてザイルで固定し、救助を要請するため夜を徹して下山しました。もちろん北壁を下ったのではなく、山頂を通り越して北西の稜線を下ったのです。自分も負傷していた高田さんの決死の深夜の下山が、日本人のアイガー北壁初登頂ですが、本人はそれどころではなかったでしょう。
高田さんは、すごいことに午前4時ごろにふもとのクライネ・シャイデックに到着、救助隊を要請しますが悪天候ですぐには発てません。そして2時間のち、アイガー北壁直下の谷に落下している渡部さんが、望遠鏡で発見されました。ザイルをはずしての落下で、痛みに耐えかねての自殺と考えられています。
高田さんの超人的行動には驚きますが、渡部さんもまた、アイガーにとりつくわずか数日前の8月6日に、負傷した芳野さんを助けながら、マッターホルン北壁を日本人初登攀した強者中の強者でした。
■日本人とアイガー
1969年8月には、数年前から築かれていたアイガー北壁ダイレクトルートの中で、最も距離が短い「ジャパン・ダイレクト」が加藤滝男、今井通子、加藤保ら6名によって開拓されました。現在でも多くのクライマーが腕試しの目標としているルートです。
1970年1月27日、森田勝ら4名により、日本人の冬季初登攀が成されました。森田さんは夢枕獏「神々の山稜」の主人公のモデルとして有名ですが、口が悪すぎる人です。1978年3月には、長谷川恒男が世界初の冬季の単独登攀に成功しました。長谷川さんは、その前年にマッターホルン北壁、翌年にグランドジョラス北壁の冬季単独に成功し、世界初の3大北壁の冬季単独登攀をなしとげました。
しかしアイガー関係で、世界的に最も名前が知られている日本人登山家は、ミッテルレギルート初登頂のYuko Makiさん、ダントツです。何しろ1921年ですからね。
■北壁タイムアタック
東京タワー5つ分の長さの壁、アイガー北壁。しかし、天候の調子がよい場合、現在の技術と装備をもってすれば、フリークライミングの難度の高い対象となりえるものです。しかし、数々のベテランクライマーの命を飲み込んだ北壁を1日で登りきったチームが1950年に存在して、それが北壁第4登というのには驚かされます。国籍?のホルシュテンレヒナー&ワシャックの2名で、夏季に18時間で登り切りました。「星と嵐」を書いた山岳ガイドのガストン・レビュファは第8登、1952年、登山家ヘルマン・ブールのサポートとしてです。6つの北壁の登山が詩的に描かれる「星と嵐」は、ラストがたしかアイガー。
1974年、あのラインホルト・メスナーがパートナーのハーベラーとともに、10時間で北壁を登り切るとんでもない記録を達成しました。8000m級を全部登ってる特殊な人メスナーくらいかと思ったら、タイムアタックは毎年のように更新され、2008年現在の記録は、団体戦が6時間50分(ヘックマイヤールート)、単独登攀ではなんと2時間47分!ルート書いてなかったんですが....フリークライミングのジム行って帰ってくるより速いですな....
■ガイド登山「日帰りアイガー登頂」
というのがあります。もちろん北壁ではなく、ミッテルレギルートを使うようです。腕に自信のある人限定のようですが、夏の高山装備で大丈夫のようです。「特に危険な場所はない」とか書かれていますが、写真をみたら剣の上を歩いているみたいな稜線で、私には全部危険にしかみえません。マッターホルンのヘルンリ稜にも、同様の日帰り登頂のガイド登山コースがあります。
blogの感想などを読むと、登山歴が見事な方でもガイドにそうとうせかされるようですので、心肺機能に自信のある方向けでしょうか。
■アイガー東壁、崩落
2006年7月のびっくりニュース。暖冬により氷河がとけ、岩がもろくなり、アイガーの東壁の巨大な岩塊--だいたい高層ビル1個分の岩が氷河の谷に落下しました。グリンデルワルトでは埃が降ったとか。長期間アイガーの東壁は登攀禁止になっていたと思いますが、今はどうなのでしょう。
(3へ続く)
■2008年のアイガー
人は、自分にないものに憧れるといいますが、どちらかというと、「できないもの」の方により憧れるような気がします。私は子供時代から喘息で、坂道が登れません。が、登れないくせに、仕事の都合上、山の上にはよく滞在していました。身近で遠いもの、それが登山。
2008年は、スイスアルプスのアイガーの初登攀150周年、アイガー北壁登攀70周年に当たります。アイガーは日本にゆかりの深い山です。
アイガー(Eeger)は、ヨーロッパアルプスのスイスにある山の1つで、標高は3970mです。アルプスはスイスのほか、ドイツ、オーストリア、フランス、イタリアにまたがる広い山岳地帯で、アイガーはベルニーズアルプスとよばれる一角にあります。標高3970mはヒマラヤなどから比べると低く感じますが、太陽があたらない垂直に近いウォールが1800m続く、なのにそのすぐ麓が観光地、と日本の山からは想像できない特徴をもつ3000m山です。
有名なアイガー北壁は、ヨーロッパ3大北壁の1つ。残り2つは、美しい魔の山マッターホルン北壁、レビュファの詩的描写で知られるグランドジョラス北壁です。ひと口に高さ1800mの壁というと、ふうん、ですが、東京タワーを5個重ねた分続くというと、どんなに恐ろしいものかわかるでしょう。ピトンが抜けたら、日本の山なら数十m落下か数百m滑落、でもアイガーは千と数百m落下(アイガーに滑落はない。あっても数mか)。
しかし、本当に怖いのはその壁よりも、夏でも簡単に凍死するアイガー北壁の気象条件らしいです。
ヨーロッパ平原の北東からの風をまともに受けるアイガーの北壁は、アルプスでも特に吹きっさらしで、夏でも吹雪く気象難で知られています。太陽もほとんど当たりません。傾斜が急すぎて雪はあまり積もらないそうで、アイガーは冬に見ていてもひときわ「黒い山」なのです。....こんなもんを登る人の気が知れません。
アイガー北壁の登攀史は、エピソードの多いアルプスでも特にドラマチックです。
当時のアルプス登山隊の写真や装備をみると、今の冬の旅行着や、ハイキング姿よりも貧弱に見えます。当時はそれで最強の装備だったのでしょうけど、よく生還者がいたものです。
■豪華ホテルから死の登攀を見物?
1930年代、アルプスはほとんどの峰が登頂されていましたが、アイガー北壁だけは難攻不落で残っており、国家の威信を示すため、ドイツやオーストリア、イタリアなどが初制覇に挑んでいました。
実は、アイガー登攀は、宣伝にはもってこいの登山です。アイガーは、スイスの高級リゾート地・グリンデルワルトやクライネ・シャイデックのすぐ目の前にあり、それらの村からは、さえぎるものなく上から下まで一望できるのです。つまり、豪華ホテルに泊まりながら、双眼鏡や望遠鏡で、瀕死の様子で北壁を登る挑戦者たちを観察することができたのです。
←□左からアイガー、メンヒ、ユングフラウのベルニーズ・
アルプス3山。
昔はベルニナ・アルプスとも言いましたよね。
撮影:Cyrill (C)SummitPost
アイガーは北壁ではなく、北西側が見えています。
■最初の悲劇
記録を見ることができる最初の北壁挑戦は、1934年、ヴィリー・ベックとリューヴィンガー兄弟のものです。標高2900mまで達しましたが、失敗したと伝えられています。ただスタート地点のクライネ・シャイデックが2000mあるので、実際のぼった量は900mほどということです。(でも東京タワー2.5個分)。このパーティの詳細は不明ですが、「アイガー北壁死亡者リスト」にはのってないので、生還したのでしょう。
1935年、ドイツのメーリンガーとゼドルマイヤーが、一週間もかけて3300mまでのぼりますが、猛吹雪のため「フラット・アイアン」(第2雪田と第3雪田の間と訳されている)と呼ばれる場所で立ったまま凍死。アイガー北壁に1週間もいた時点ですでにすごいのですが、この遭難は「死のビヴァーク」と呼ばれ有名です。
1936年7月には、ドイツのヒンターシュトイサーとクルツ組、オーストリアのライナーとアンゲラー組が、同じ時期に登攀を行い、途中で合流していっしょに登りました。落石によるオーストリア隊のケガのため、4人とも下山を決めますが、途中でルートを見失い、ピトンが抜けてクルツをのぞく3名は数百mの谷底へ落下してしまいます。トニー・クルツは1人で最後の数十mまで降りますが、ザイルがたりなくなり宙づりのまま疲労凍死してしまいます。そこは、真下の鉄道の駅から人々の声が届く位置だったそうです。この遭難は映画にもなり、トニー・クルツの悲劇として有名です。
■アイガー北壁、初登攀
1938年6月、イタリアのサンドリとメンティ組が北壁に挑戦しましたが、”難しい割れ目"近くで墜落しました。スパゲッティやオペラのイメージが強いイタリアもまた、アルプスを国土の一部にもつ山岳国家なのです。
同じ年、1938年7月、有名なハインリヒ・ハラーらドイツ隊による、アイガー北壁の初登攀がなされます。ハラーが有名なのは、アイガー登山史の名著「白い蜘蛛」を著したこと...ではなくて、映画「セブンイヤーズ・イン・チベット」でブラピが演じた主人公だからです。
ハラーのほか、アンドレル・ヘックマイヤー、ルードヴィヒ・フェルク、フリッツ・カスパレクの4名は3日でかかって登頂の上、全員無事に北壁から帰還しました。当時のドイツの総統ヒトラーは大喜びで、次にハラーはヒマラヤ遠征隊に選ばれます。そしてヒマラヤから英国軍捕虜収容所をへて、ヨレヨレでチベットへ...。ハラーの著書名のホワイト・スパイダーとは、アイガー北壁上部に浮かぶ雪と岩でできた模様のことで、難所で知られます。
(アイガー北壁ー2へ続く)